誰にでも、外見からは思いもよらないようなコンプレックスが一つや二つはある。
先日、娘の好きなアイドル(みたいな人)が、性同一性障害であるという激白を聞き、当事者ならではの深刻な悩みを聞かされた。
トイレの問題や肉体の問題など、聞けば聞くほど、涙が出るような内容だった。
もちろん、外見からは想像もつかないこと。華やかな活動をしている反面・・である。
きっと身近な人にも、どんな人にも、悩みや自己否定、知られたくない過去などいわゆるコンプレックスは確実に存在するはずだ。
ただ、認識として現在持ってるということは、人間には、忘れるという機能があるにもかかわらず、その記憶を常にリフレッシュし、保持し続けている、ということになる。
さっさと忘れてしまえばいいのに、だ。
常にアップデートしつづけるそのコンプレックスの記憶は、伝言ゲームのように少しずつ形を変え、もはや当初のものとは全く違うものかもしれない。
誇大してとらえてるかもしれない。
何しろ、人の記憶が作りだすものなので、その精度は不確かだ。
理想で言えば、そのコンプレックスを刺激され浮き彫りにされたその瞬間に、保持するではなく、「捨てる」「手放す」「終わりにする」といった決意をすれば良い。
この強い意志がなければ、残念ながら、いつも通りの保持する、になるのだ。
このように、浮き彫りになるものは、正直、手放しやすい。
厄介なのは、浮き彫りにならないものだ。
深海に沈んだコンプレックスは、臭いものには蓋をする、という表現通り、二度と浮き上がって来ないように意識的に無視をし続けてきたものだ。
絶対に見たくないもの、開けると怖いもの、である。
浄化を進めていくと、このシーンに遭遇する。浄化に慣れて来てる頃なのだが、大抵の人は「こんな自分がいたなんて・・」と酷い自分に愕然となるものだ。
その結果、何が待ち受けてるかというと、素晴らしい景色しかない。
ちょっといけてると思ってた自分、すごいと調子に乗ってた自分、人より優秀だと思って自分、そんなジャッジの優劣の中で生きてきた方は、まず「自分にもこんなダメなところがある」と冷静に受け止めるということ。
そして、その結果、「人は誰でもこんなダメなところがある」と理解できる、ということ。
これは、優劣からの解放であり、すばらしい局面でもある。
そして、そんな自分を許し、手放すことができたら、他人のだめなところを許せるようになる、ということ。
これが、愛のはじまりともいえる局面でもある。
コンプレックスがあると、人生は豊かになる。人の痛みもわかるようになる。
その自分を許すことで、人へも寛大になる。
あなたもわたしも、どうせ大したことない人間だし、同時に、誰もがすごい存在。
どうせなら、コンプレックスさえ、認めて手放すことで、すばらしい景色を一緒に見よう!
人生は、逆説的に素晴らしいのだから!!
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